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スモーキン・エース/暗殺者がいっぱい


原題:SMOKIN' ACES

 2006年(米)監督:ジョー・カーナハン

 

 

マフィアのポンコツな重役イズラエルさんに暗殺依頼が出されたぞ。依頼を受けたのはクセのある暗殺者10人、5チーム。誰がイズラエルさんを殺すのか?事情聴取したい警察はイズラエルさんを守りきれるのか?

 

スモーキン・エース/暗殺者がいっぱい - Wikipedia

 

 

ジョー・カーナハンという監督

おそらくジョー・カーナハン監督作品でいちばん有名なのは特攻野郎Aチーム劇場版だと思う。

 

そもそもジョー監督はトム・クルーズにミッション・インポッシブルの監督に抜擢されたり、バッドボーイズの続編監督に抜擢されたりしているが、なんだかんだでポシャッていて、リメイクで仕上がっているのはAチームだけだ。

 

フィルモグラフィーで見ると、なんとも陰鬱な世界を持っているというか「色々頑張っても結局死んだら無駄だよね」みたいなシークエンスが良く入る。

死とか、計画がオジャンになるみたいな、何かが終わることへの恐怖みたいなものが伝わってくる。

ナークとかザ・グレイなんかはテーマと直結しているから分かりやすい一方で、Aチームなんかでも「あ…死んじゃった…」みたいな喪失感をアッサリ、しかしハッキリと表現している。

 

それとは対象的に徹底的にどーしよーもないカラテキッドのパロディギャグとか、戦車を空から降らせるみたいなフィクショナルなエンタメ性をぶち込んできたりもする。

現実には絶対いないけど映画ではよく見るキャラ設定の登場人物なんかに加えて、うっかり人が死んじゃった的な大騒動展開を真面目に表現するあたりはタランティーノっぽくもある。

映画っぽい映画というか。

 

この2つ、何かが終わることの描写と、いかにも映画的な描写がジョー・カーナハン映画の楽しい部分であり、彼の作家性なんだと思う。

 

スモーキン・エースの危ういバランス

このスモーキン・エースは上記したジョー・カーナハンの監督性が両者ぶつかりあって非常に危ういバランスで成り立っている。見る人によってはそのバランス感のおかげで映画自体がチグハグに見えるかもしれない。

 

具体的に言うと、

トランプを肌身離さず持っていて、マジックで相手を翻弄するクスリ漬けのマフィアもどき

とか、

ネオナチでアッドマックス風のプロダクトに身を包み、すごく怒りっぽく乱暴で、登場の際にはバックにはヘヴィメタルがかかっている、極悪兄弟

みたいに情報量の多いキャラをタイトにまとめて画にしたり、殺し屋集団がそれぞれのファイトスタイルでの殺し屋芸を披露しまくるのを重層的に見せたりするのが超ポップであり超エンタメで、わかりやすくおもしろい。

しかしながら起こっている展開そのものは全く意味のない殺し合いであったり、その場に居合わせた全員の勘違いだったりする。

死に物狂いで到達した所に目的のものがなくてガッカリ、みたいなことが起きてしまう。

 

この、相反することが同時に起きているバランス感をあえて否定的に言うなら、スナッチほどは煮え切らない、セブンほどやりきれないわけでもない

 

どうしても「いろんな要素を詰め込んだらうまく出力されなかった」という印象を受けてしまう。

 

でもキャラの描き方とか展開の妙とか間のとり方とかを抜き出すと、場面場面ではハッとさせられたりするし、俺はそれはそれで好きなわけよ。

ただ、「明日休みなんだけどおすすめの映画ある?」みたいなときにスモーキン・エースはどうしても出てこない。

いや、面白くないってわけじゃない。

死体でパペットマペットするシーンとか、エレベーターでの手に汗握るシーンとか、湖から生き延びて超クールに復讐するアイツとか、ビルのフロアごと一掃掃射するアイツとか、もうそれだけでサイコーなんだけど、なんだろうこの微妙に損してる感は

 

引っかかる映画

そんな感じで正直どっちつかずの映画なんだけど、なぜか妙に引っかかる。

スモーキン・エースに限らず、ジョー監督の映画は「ハイー、ありがちなしょーもない映画ね」という風に処理できない。

多少のアラはさておき、ド肝を抜かれるようなブチ上がりシーンはたくさんあるのだ。

 

しかしこのジョー監督、けっこういろんな映画の企画に持ち上げられては暗礁に乗り上げてしまっているようだ。

冒頭で書いたミッション・インポッシブル、バッドボーイズだけでなく、2018年公開予定のデス・ウィッシュも、企画が持ち上がった2012年から6年経ってようやく封切りとなっている。

ジョー監督のバカ寄りのドンパチ映画がまた観たいんだけど、いつになることやら。