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南極料理人…現代日本の病理を描く怪作


南極料理人(2009)

 

南極監査隊として派遣される隊員6名の日常を描いたコメディ。

南極でも内陸の標高5000m級にある「ドームふじ基地」、外界との接触が不可能な状況で一年半の任務が始まる。

 

映画に限らず漫画やドラマなどに料理モノが増えた結果、ダンジョン・一人飯・お取り寄せなどシチュエーションを限定した料理漫画も真新しさを失いつつある。

そんな今でこそ、この映画の登場が早すぎたことがわかる。

 

 

しかし内容はと言うと、料理そのものはストーリーに絡んでくる程度で特段フォーカスされない。

無理難題を料理で解決したり、味や薀蓄に言及したりもしない。

あくまで南極で暮らす人間が主軸だ。

 

また、南極の話ということで『遊星からの物体X』みたいな感じかな?とか冗談で思っていたら、とんでもない。

それを上回る恐怖の、実に日本映画らしいイヤ〜な手触りだったのだ。

 

内容を示唆するオープニング

オープニングは吹雪の中の基地。

やたら長く基地が撮られているかと思うと、目を凝らしてようやく見えるくらいの人影が見える。

走っているようにみえる人影と、それを追っているように見える人影。

 

カットが変わって二人の会話が始まる。

 

「もう無理っす!」

「お前が頑張るしか無いんだ!」

「もうダメ!帰りたい!」

「お前は大事な仲間なんだよ!おまえがやらなきゃ駄目なんだよ!」

 

「やれそうか?ちゃんとやれるな?」

「やれるな?麻雀」

 

とまあ麻雀が嫌になった隊員が逃げ出したのでした的なギャグなんだけど、妙に引っかかる。

麻雀に負けたくらいでしっかり防寒装備を着て外に逃げる?

よしんば逃げ切れても行くところなんて無いのに?

 

「映画なんだからそんな目くじら立てんでも」という意見もあるだろうけど、これはいわゆる非日常の日常物であり、描写の丁寧さ、細かい設定などで観客をうならせ、歪なリアルさを楽しむという作りだ。

その映画でギャグのために設定を曲げるなんてことはあってはならない。

 

そういう意味で、オープニングは「これを見ているお前たちは普通な顔で日常を過ごしているけど、結局閉じ込められていて逃げ出せないんだぜ」と示唆しているとも取れる。

 

まさにこの映画は「逃げ出せない」という状況の中に、普段の生活の異常さを浮かび上がらせる。

普段の社会を男性6人に凝縮することで異常さがより際立つのだ。

これが基本的な構造となる。

 

不穏な”なんでもないエピソード”

映画自体はちょっとした何でもない話を重ねていく。大きな事件やスペクタクル、アクションは起こらない。

しかしこのちょっとしたなんでもない話がとにかく不気味で、人間の嫌な部分を剥き出しにするようなものばかりなのだ。

 

豆まき

→鬼役を基地から締め出した後に迎え入れたり謝罪したりするシーンがない。半裸でマイナス70℃にさらされる隊員は「入れて〜」と戸を叩く。そこでシーンは終了。ごめんなとか、寒くて大笑いみたいなのは一切ない。

 

伊勢海老

→伊勢海老があるとわかると、皆で海老フライにしようと言い出す。料理人は刺し身のほうがうまいと反対するが、多数決の同調圧力によって海老フライを作るハメになる。

それでいて、できた海老フライを食べて一言「やっぱ刺し身だったな」。

門外漢がプロの意見を無視して注文し、挙句ただ文句を言うという誰もがブチ切れるあるある。

 

誕生日

→誕生日に妻に電話に出てもらえず落ち込むというシークエンスの後にお誕生日会。大の大人が「おたんじょうびおめでとう」と垂れ幕を書くなど、完全に狂気の沙汰。

主役は誕生日の隊員のはずなのに、彼は「電車で通えたら良かったのにね」と家庭の不和を嘆く。それを横目に、ただ騒いでいる他の隊員。

 

仮病

→一人が気を病んで仮病で休む。そんな同僚に優しくするどころか「不公平だ!」と厳しく追求、叱責。最悪。働きにくい社会。それはお前が作ったんだ。

 

電話の相手に恋をする

→衛星電話中継局の女性に恋をする。相手の気持が介在しない、ストーカー的な記号化された物への一方的な偏愛。

 

 

エピソードで抜き出してみればどれも普通の日常コメディなんだけど、映画には常に不穏な空気が漂っている。

それは、やたらと長いカット、背景にもピントがあっている事による、「この後なにかあるんじゃないか?後ろからなにか現れるんじゃないか?」という一種病的な映像のおかげだ。

 

テーマ

料理人である主人公を演じる堺雅人の表情は、終始これから豹変しそうな笑顔

鍵泥棒のメソッドでもそうだったけど、何を考えているかわからないのだ。

この常に何か一物を抱えた笑顔というのが作品のスジとなっていく。

 

序盤の洗面所のシークエンス…剥き出しのトイレで見られながらの排泄や、たびたび繰り返される放屁、排泄の話は、「お前らはモノ食いながらクソしてるようなもんだぜ」というメッセージだろう。

 

また、ラストカットでソースまみれのテリヤキバーガーを堺雅人が頬張り「うま」と言って映画は終わる。

映画では繰り返し、豪華な料理、伊勢海老、カニ、フォアグラ、中華料理などがこれでもかと登場するが、隊員が本当に心を動かされるのは失敗した唐揚げだったりラーメンだったりする。この、「普通のなんでもないもののほうがいい」のダメ押しのラストシーンだとしたら、物語の意味は「消費社会に疑問を持たずに身を投じろ」となるのだろう。

 

簡単に言うと、ファイトクラブの真逆をやっているのだ。

いや、それ以上に強い、「高級料理だろうが食えばクソなんだから安いものでも食べておけ」というような話なのかもしれない…

 

ノれなかった俺が悪いのか

いや、まあ、なんというか。

俺はこの映画にあんまりノれなかったってだけなんだけどね。

 

いや、確かにいいシーンもあったよ。ラーメン、超うまそうだったし。

なんなら「うまそうさ」だけなら、カタルシスがある分『たんぽぽ』よりもうまそうだったし。

 

あとふしぎ大陸南極博覧会で衛星電話するシーンね。

あのへんも家族はお父さんが単身赴任したおかげで実は元気がなくなっていたみたいな話で、すごいグッとくるんだけど、「落ち込んでるおかあさんに君が料理を作ってあげなよ」って言う堺雅人に、ユミちゃんはめっちゃ冷淡に「なんで?」って返すじゃん。

怖すぎない?もうちょっとなにかなかった?

あれももしかしたら「グッときてんじゃねーぞ」っていうやつなの?

 

 

とにかく、ああいう腹に一物抱えながらでも頑張ってやっていきましょうみたいな感じとかやっぱ俺は嫌なんだよね。

端的に言えば会社組織じゃん。

エラさが違うやつらを集めてなにかしていきなさいって、俺も前の会社は6人程度の少人数だったけどすげえ嫌だったね。

なんか、同じ釜のメシ食ったんだから細かいところは見ないことにして同化しなさいみたいな感じ?

別にそれぞれに好き好きにやればいいのに、家族みたいに同化しなきゃいけませんってすごい抵抗があるんだよね。

 

ああいうのにまだ触れてない学生とか、逆に疑問にも思わないくらい麻痺してる人は楽しめるかもしれないね。

でもやっぱりそれを「おかしみ」として表現して肯定するようなのはイヤだな〜。

そういう意味で「現代日本の病理」だと思うんだよね。

 

 

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